アリストテレスの「習俗」と経済人類学的視座
振り返って見ると、1980年代頃からいわゆる「大衆」なるものがどこに行ってしまったんだろうという兆候が現れ出し、当時「小衆」なる言葉も人気を呼んだりした。このあたりから、「物事は全て数値化して語れたり、要素に還元して語ることが出来る」という幻想が、大きく崩壊したように思われる。
「数値化出来ない」という意味をもっと発展させれば、何ものも「価格」というものに変換しようという市場経済の論理が崩壊しつつあるということでもある。
また、ビジネスの戦略分析に関わる分野においても、数値化も要素還元の両方に依存している「SWOT分析」は、過去に別稿で批判した通り、「使えない」ものであることは、再度言うまでもない。
経済は、マルクスやその主義者のような理路整然としたもので語れるようなものではなく、人々は、いくら法律という整備して拘束しようとしても、まるで集団がひとつの生物のように全く違ったところで、自身の規範のようなものを作り上げる。
これは一体、どういうことなのか?
経済学や法学の理論が、全く届かないところで生きる人々・・・
更なるとどめの一撃を加えるかのようなインターネット・カルチャー。
私は15年ほど前から一貫して、社会が「市場経済」ベースで動いているわけではないと理論的根拠もなく、実感として感じ続けている。
近年あらゆる場面において、いわゆる近代的なものや発想がますます通用しなくなってきていることは、最早誰の目からもわかることではなかろうか。
いわゆる「近代的」なるものから解放されると、古めかしい哲学者の著作も考えさせられるものとなったりする。古代ギリシアの大哲人、アリストテレスもその一人である。
「ノモス」とは、今でこそ「法律」と訳すことも可能な言葉であるが、当時の概念にふさわしいであろう「習俗」」と捉えると、どうであろうか?
アリストテレスで有名な概念のひとつに「最高善」なるものがある。これは、人生の究極の目的であり、幸福のことであり、その幸福とは共同体の徳の完全な実現にあるとされている。で、その実現は「習俗」によって果たされるのである。すなわち、集団の心性の実現たる「習俗」を実践することが、最高善であり、幸福への道であるのである。
このアリストテレスのいう習俗にいち早く注目したのが、経済人類学者カール・ポランニーの『経済の文明史』である。この本によれば、「市場社会」というのは、近代社会だけに見られる特殊な現象であり、実は「経済」というのは、本来的には習俗の中に「埋め込まれて」いるものなのである。
だとすれば、コンサルティング会社がいくら「市場分析」を行ったり、「ターゲット」を設定したり、マーケティング戦略を策定してみようとしても、埋め込まれている「経済」だけを「社会」から切り離した途端、現実とはかけ離れたものとなってしまい、見事、分析・戦略をことごとく外してしまうという結果となっているのである。
マーケティングを考える場合には、企業の経営や世の中・人々の動き、習俗などを大局的に捉えることの出来る眼を研ぎ澄ますことと、暗黙知による直感ということを最大限駆使する以外に有効な手だてはないと考えるのは、私だけなのであろうか?
(2001/08/12)









