2006/8/24 木曜日

指揮者チェリビダッケの戦略クラフティング

Filed under: 経営戦略 — 咲本 @ 21:18:05

先日、チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニーのブルックナー未完の交響曲となった第9番のライブCDを初めて聴いた時、演奏の素晴らしさに感動より先行して、ただただ驚きの気持ちでいっぱいになった。
今再び聴くと、今度は鳥肌が立ちっぱなしになった。
チェリビダッケは楽団員個々の実力と楽団としての徹底した練習によるアンサンブル力の高さがないと、すぐにボロが出てしまうことばかりさせているにもかかわらず、楽団員は細部に至るまで全く乱れることがない。
そして第3楽章も20分を過ぎると、感激のあまり涙があふれ出てきた。
(ちなみに聴いたのがブルックナーということもあって、感情的・感傷的になって涙が出たわけではない。純粋芸術としてのえもいわれぬ素晴らしさに涙したのであり、例えて言うと、名画を前にして涙するという感覚にも近く、普通に考えて本来涙するような曲とは思われていない。)
ブルックナー:交響曲第9番+リ チェリビダッケ、ミュンヘン・フィル / ブルックナー:交響曲第9番+リハーサル(2CD)

チェリビダッケの演奏は、古今東西のブルックナー9番のCDの中では突出して演奏時間の長いものとなっている。
この演奏がいかに長いものかということを他の指揮者と比べてみると、

第1楽章
22分26秒: E.ヴァン・ベイヌム/コンセルトヘボウo.
32分26秒:チェリビダッケ/ミュンヘンpo.
第2楽章
8分57秒:アーベントロート/ライプツィヒ放送響
13分47秒:チェリビダッケ/ミュンヘンpo.
第3楽章
20分3秒 :シューリヒト/ウィーンpo.
30分36秒:チェリビダッケ/ミュンヘンpo.
(「kuniのブルックナー交響曲第9番」参照)

という結果となり、チェリビダッケの「遅さ」は想定外ともいえるものとなっている。

チェリビダッケの9番を聴けば、ビジネス用語でいえば、「差別化」戦略でもあり、競合他社のとらない独特の「ポジショニング」をとっているという人があるかもしれない。
しかしこれはものの見方を完全に誤っている人の捉え方だと思うし、もしそうであったにしても、その発言自体は評論家としての発言とはなりえても、ビジネス上何の意味もなさない。
なぜなら、それはあくまでも「結果として」演奏されたものを組織の外部から表面的に見て「後追い的に」理屈付けしたにすぎないだけなのだから。

チェリビダッケには確固たる「森」を構築する表現理論とブルックナーへ演奏に向けられた解釈論がある。
言い方を変えれば、明確な「サイエンス」を持っている。

その実現のために、コンサートではいつも他の指揮者の数倍にもわたる練習時間が使われ、そこではむしろ「木」の一本一本へ視線が注がれる。
こちらは言い方を変えれば、演奏における「クラフト」(工芸)的側面である。

その結果、確かに超スローテンポな個性的演奏とはなってはいるが、チェリビダッケ自身のやっていることはといえば、特に奇をてらったような指示をしているわけでは決してないのだ。
例えば、ブルックナー特有のひとつひとつの複雑な和音の響きが味わえるようなテンポ設定にしたいがゆえに、他の指揮者からすれば途方もなく遅いテンポと「結果的に」なってしまったり、ティンパニーのような打楽器を「打つ」という性質よりも、そこから出てくる「音」の性質を重視したいから「結果的に」弱めの打楽器の音になったり、4拍子の4泊目は1・3拍目と比べると弱くなるとの小学校で習うリズム論を忠実に守りたいがゆえに、「結果的に」4拍目がふっと音が弱くなることがあったり、音符に忠実たらんとした「結果として」よく見受けられる演奏のように、金管楽器のフォルテシモにアクセントを付けた短めの音で吹かせるのではなく、いくら体力的にきつくともしっかりとテヌートで吹かせていたりしているだけなのである。

意識的に差別化をしようと全く思わなくても、9番を徹底的に研ぎ澄まされた演奏にしようという楽団と一体となった取り組みから、他には似たような演奏が想定すらできない全く異質な演奏ができあがっているのだ。

また、ポジショニングについても、もし意識していれば結果的にはポートフォリオした場合の四象限内からはみ出しかねないような極端といえる遅いテンポ設定の演奏を考えるわけがない。

繰り返しになるが、チェリビダッケのやっていることで私が気づいたことを書くと、

  • ひとつひとつの複雑な和音の響きが味わえるようなテンポ設定
  • 打楽器を大きな打撃音を出す楽器としてではなく、音程のある弦・管楽器と同じように扱う
  • 4拍子だと1・3泊目が強く、4泊目を弱く演奏するというリズム性
  • 楽器間の音量的バランスと音程に配慮するとともに、美しくハモらせるために、演奏にあたって絶えずまわりの楽器の音に徹底した注意を向けさせる
  • ひとつひとつの音符を正確に演奏させる

というふうに、このように書いてみると特別変わったことをやっているわけではないのだ。
(もちろん、たったこれだけの原則でやっているわけではないだろうが。)

すなわち、チェリビダッケの演奏は、「差別化」や「ポジショニング」という外面的な発想ではなく、「アート」的直観を重視しながらも「クラフト」(工芸制作)的なプロセスに焦点をおいて、細部を徹底的にこだわった結果なのである。
「サイエンス」的側面たるブルックナー解釈や指揮者独自の音楽理論は、必要とされるその瞬間に必要な事柄を的確に説明していかれるのであって、サイエンスを語ることが指揮をするということではない。
このことは、アルバムの付録として収録されているリハーサル録音と翻訳文を照らし合わせればうかがい知ることができる。

チェリビダッケは現場での「聴こえ方」に焦点を集中させている。
リハーサルで完璧に仕上がった状態においても、次のような言葉を楽団員に付け加えることを決して忘れないのだ。

ただ、聴衆がいると、少々具合が変わってくる。だから、私があなた方に言いたいのは、あなた方がすでに知っていることではなく、聴こえるものに反応してほしいということだ。これくらいのトレモロならどう聴こえるか、それを言える者はわれわれのうちには誰もいない。いいや、そんなことはわからないのだ。聴衆で埋まったホールにおいては、状況が変わる。そしてあなた方がこの練習において、さまざまな機能を認識したと証明した事柄こそが大事なのだ。ある箇所で、私はホルンの伴奏をし、それをヴィオラへとつなぐ。そういったことが知らねばならない何かなのだ。もしもあなた方がそういうぐあいに演奏するなら、響きが濁ってしまうことは絶対にない。(翻訳・許光俊)

楽団員をサイエンス的見地から得られたプランニングどおりにコントロールさせようとするのではなく、クラフト的にコンテキストに応じて即興的に対応できるように集中させようとする。
それができるようになるための時間がリハーサルのかなりの部分を占めることになる。
ある意味でこれは現場における「創発」を重視している姿勢といえるだろうし、「即興的交響」の方向に向いた姿勢ともいえる。

ここではチェリビダッケのブルックナー9番の演奏にクラフト的特徴に顕著であったために例として挙げたのであるが、実はこれはチェリビダッケに限らず、ほとんどの一流指揮者といわれている人達が多かれ少なかれ持っている特徴であろう。

さて、ここまでいくつかの聞き慣れない概念を使ってきているので、以下、説明していくことにする。

まずは「クラフト」という概念について、「戦略クラフティング」なる概念を編み出した経営学者ヘンリー・ミンツバーグは次のように説明している。

工芸の世界は、長年来の伝統技能、わが身の献身、ディテールへの精通によって、初めて完璧さが得られる。クラフティングについて我々の心に浮かんでくるイメージは、思考や理性ではなく、むしろ長い経験や没頭、手持ちの素材への愛着、バランス感覚といったものである。形成していくプロセスと実行するプロセスとが学習を通じて融合し、その結果、独創的な戦略へとだんだんと発展していく。
私の問題意識は至極明快である。戦略は工芸的に創作されるというイメージこそ、実効性の高い戦略が生まれてくるプロセスを言い表しているのではないかというものである。

ミンツバーグは陶芸家を「一人だけの組織」だとみなして、陶芸家を戦略家、粘土を戦略だとして語っているのだが、チェリビダッケの事例に当てはめると、指揮者が戦略家であり、楽団員の演奏が戦略ということになる。
私は、オーケストラという組織の中の指揮者たるチェリビダッケの事例のほうがわかりやすいように思える。

なぜなら陶芸家は個人の手によって粘土を「コントロールできすぎる」からであって、ミンツバーグの言いたいことは、一人で粘土をこねる陶芸家よりも、楽団員のほうがコントロールするのが難しいという理由により、チェリビダッケの事例で説明するほうがぴったりくると思えるからである。

人によれば指揮者も十分コントロールしすぎる存在であると思われるのかもしれないが(例えばドラッカーが組織論において説明に使ったオーケストラ)、もし指揮者によってコントロールしすぎる演奏が行われれば、少なくとも歴史的名演といわれるような演奏にはなりにくいのではなかろうか。
このオーケストラを事例にした組織論については、近いうちにコラムで書いてみようと考えている。
次に「創発」ということについても触れておかねばならない。
これを同じくミンツバーグの発言から引用すると、

知らず知らずのうちに生まれてくる戦略、あるいは何らかの意図があったにしても次第に形成されてくる戦略のことを「創発戦略」(emergent strategy)と呼んでいる。要するに、さまざまな行為が単純にパターンへと集約されるのだ。
創発される戦略の場合、むしろ学習が促される。すなわち、各々が一つひとつの行動を積み上げながら、その結果に反応していくうちに、だんだんとパターンが現れていくからである。

ということである。

チェリビダッケは楽団員が「パターン」をつかめるようになるよう徹底的にリハーサルに時間をかけている。
そして、響きが濁らないように、絶えずまわりの音を聴きながら、それに反応していくことを求めている。
ただし、チェリビダッケは明確な理論を持った上で楽団員に指示もしているわけであるので、純粋な創発戦略であるとはいえない。
それがまさにミンツバーグのいう「戦略クラフティング」の位置づけになるわけであって、それは次のようなことなのである。

純粋なプランニング戦略と純粋な創発的な戦略は一本の線上の両極にあり、したがってクラフティングは、この線上のどこかに位置することになる。いずれの極のどちらかに寄ることもあろうが、ほとんどの戦略はこの線上の中間に落ち着くことになる。

つまり、戦略クラフティングとは、サイエンス的なプランニング戦略「だけ」に走ることもなく、創発的に「だけ」なろうとするのでもなく、そのバランスがたいへん重要なカギとなる。
優れた工芸家やチェリビダッケのような指揮者は、そのバランス感覚においてすぐれている。

最後に「即興的交響」について触れておくと、これは最近になって登場した戦略論におけるひとつの仮説であるが、平たく言えば、指揮者だけではなく、各楽器の首席奏者も指揮者とよく似た権限と行動を持つことで戦略が形成されていくというひとつのモデルのことである。
これは経営学者河合忠彦氏の説明によれば、

トップは交響的行動を基本としつつ、必要に応じて、ミドルの即興的行動の追認を含む即興的行動をとらなくてはならない。またミドルも交響的行動を基本としつつ、必要に応じて即興的行動をとらなくてはならない。交響のテーマは、以上のようなトップとミドルによる即興的交響の結果として形成される。

というものである。

特徴的なのは、トップたる指揮者以外にミドルたる主席奏者のような存在を戦略形成のモデルに位置づけることにより、戦略形成のスピードと戦略内容における創造性とが期待できることであって、その分、指揮者の強いリーダーシップを必要としないという点である。

いずれにしても、即興的交響モデルも戦略クラフティングに含まれるモデルとして考えられていることに違いはない。

大体、このような議論が活発なのは、米国を中心としてMBA的マネジャーともいうべき戦略家が、現場のことを度外視して「絵に描いた餅」たるプランニングに専念してきたこと、それを戦略家の姿だと大きな勘違いがなされてきたこと、このことによる弊害が頻出しているからだった。

ちょっと冷静になって考えてみると、次のようなことは、すぐに気づいて然るべきであったのだ。

ある日は考え、別の日は仕事に専念するという工芸家はいない。工芸家の頭はその指とつながっている。にもかかわらず、大企業では頭脳と指の動きを分離しようとする。その結果、頭脳と指の間に不可欠なフィードバック・ループを断ち切ってしまう。

チェリビダッケの音楽を聴いていて私が学んだのは、いくら世の中「差別化」することばかり考える風潮があるからといって、そんなことにやっきにならなくとも、ある意味、課題に対して真正面からクソマジメ・徹底的に実践していこうとすれば、結果的に他社と較べると大きな「差別化」といわれるようなことができてしまうということなのであった。

そして、そのためにどうしても必要なキモとなるのが「戦略クラフティング」と呼ばれている、‘頭脳とその指とがつながっている’クラフト的側面重視のマネジメントなのであった。

参考文献
DIAMOND Harvard Business Review, 2003/1
河合忠彦『ダイナミック戦略論』

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